本来、すべての判断基準は、自らの「内側」に置かれるものだ。 専門家任せにせず、リスクは自らが引き受ける。 判断基準の刀は五感をフル動員して、常に研ぎ澄ます。

ここのところ、判断基準を自らの外部に置くことの問題が目につく。

自らの眼と耳と直観力をもって判断することなく、
「専門家の言にしたがって判断しよう」という姿勢は、やがて破たんする。

金融格付機関は、もはや完全に信頼を失ってしまい、
結局のところ、彼らはスペシャルではなかったということだけが分かってしまった。

中間媒介物たるメディアが伝えようとしている世論が、
実際の世論とはかい離しつつあることは、
ネットがバイパスすることで明らかになった。

そして、ルールでがんじがらめにしてリスクを排除しようとする
内部統制の行き過ぎは、結局のところ投資家にしっぺ返しとして返ってくる。
変わらぬリスクにかけられた過剰なコスト=株主価値の無意味な減衰というかたちで。

すべては、「外側」にいる専門家たちが、己が利益のために
権威付けし、集約し、虚ろなプレミアムを乗せていたにすぎない。
その意味で、彼らの罪は重い。

しかし、「内側」にある判断基準を鈍らせ、
安易にアウトソースをしてきた我々の罪は、より重い。

本来、すべての判断基準は、自らの「内側」に置かれるものだ。
専門家任せにせず、リスクは自らが引き受ける。
判断基準の刀は五感をフル動員して、常に研ぎ澄ます。
それが自己責任であり、それこそが最も確実なはずだった。

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判断基準を自らの内に取り戻す | 後日乗

名文。

だがしかし。ふっとこれを見て、株主資本は至上ではないよ、と思って見ていたのは少し見方が変わってきたからなんだと思う。クレジットからみて株価はTailであるということ、フローと信用と債券市場と間接金融型日本経済ということをじーっと考えると、この言葉は米国型MBAを標準ツールとして身に着けた著者の経験バイアスと言えてしまうのかもしれない。

この辺、じーっと考えてみたい。なんか見えてきてるような気がする。

引用元:http://hhashiguchi.jugem.jp/?eid=1045