他者なしで下された評価は、審美的判断として無効である

思考実験をしよう。「自分は『モナ・リザ』以上の絵を描いたが、誰にも見せないうちに焼いてしまった」と主張する画家がいても、誰も真に受けないだろう。「誰にも見せないうちに」という部分を「一人だけに見せてから」と変え、その鑑賞者が「確かに『モナ・リザ』以上だった」と証言しても、事態はほとんど変わらない。
 さて問題である。「一人だけ」が「十人だけ」のとき、あるいは「一億人だけ」のとき、事態はどれくらい変わるか?
 もし鑑賞者十人と画家が話し合い、「あの絵は『モナ・リザ』以上だった」という共同見解を発表したら、胡散臭さに茶番が重なって、事態はむしろ悪くなる。一億人いれば、もっと悪くできる。もし画家がスターリンで、一億人の鑑賞者が全員ソ連人民なら、胡散臭さと茶番と圧制の三重奏だ。
 事態をまともにするには、他者が必要だ。関係者の誰ともグルでない(=社会の外にいる)、自由に発言する、異論を差し挟む資格を有する他者が必要だ。評価を下すとき鑑賞者は、そのような他者を意識し、他者に対して説得力のあることを言おうと努めなければならない。このとき他者は実在しなくてもいい。もし誠実な鑑賞者なら、有資格者が自分ひとりのときにも、同じ努力をするだろう(ただし、評価を聞く人々がその誠実さをどれくらい信じるかは別の問題だ)。
 他者なしで下された評価は、スターリンの見世物裁判が無効なのと同様、審美的判断として無効である。

引用元:http://kaoriha.org/nikki/archives/000528.html