前座見習いとして寄席の楽屋に出入りする前だったと思う。
歌丸のかばん持ちとして出かけたときのこと。交差点で歌丸が足を止めた。
「歌児(前座のときの歌助さんの名前)、あの信号の色は何色だ?」
「赤です」
「赤じゃなくて、あれは青だ」
何を言い出すのかと思ったが、師匠の言うことは絶対だ。歌丸だから、というわけではない。落語の世界では、先輩や師匠が言ったことに盾をついてはいけないのが常識だ。
だからわたしは「すみません、青でした」と答えた。
「そうだ青だ。だから渡りなさい」
目の前を車がひっきりなしに通り過ぎていく。ここは渡るべきか。渡ったら交通事故に遭うだろう。歌丸は止めてくれるのか? 躊躇しているうちに信号が青に変わった。
「歌児、いいかい、こういうときは”わたしはかばん持ちなので師匠、おさきにどうぞ”ぐらい言うもんだ」
歌丸の口元にはかすかに笑みがこぼれていた。
あの言葉は、初めて楽屋入りする弟子へのはなむけだったと思っている。「理不尽な言いつけに対してはシャレで返せ」という。
引用元:http://quote-over100notes-jp.tumblr.com/post/176751123631