「見本」を置いている様な人は、それを分け与える事を苦にしない本物です。

「他者と異なることを主張する」のが自我の確立では無い。
「普遍的な価値観を、自分の言葉で語れる」事がその本質。

子どもの好き勝手を許すことは、自主性を育む事を意味していないのです。
そこを勘違いしている人間に、子どもを扱わせてはいけない。
子どもが不幸になります。

また、自分を相対化するには、「本当に優れた者」を見る事が必要。
人間として「親より絶対的に優れているわけではない」教師だけでは、多分無理。
対応は、「全てにおいて優れている」状態を前提にしない事。
言葉を変えれば「人間はでこぼこのある不定型な物」を認識させる事

うちでもあったが、「相手との言葉のすりあわせ」もせず、自問自答を相手の思考であるかのように主張する人間は、「他者と自者の相対的な位置」を認識していない確率が高い。

賢い人達は、小さな部分で「相手のレベル」を見分けて、対応を変化させてくる。そういう人達は怖い人達でもあるのだが。

「私を手本にしなさい」はあり得ない。
「手本にすべき人」は、周囲がそれを選択する事によって生み出されるもので、 「すべきである」では無く、「そうありたい」として生み出される。

非常に有益な「見本」は、その状態を作り出す事を試みた人間が、「自らの 技量の不足」を認識する事によって「手本」になります。「手本にせよ」と強要する必要など、そもそも無いのです。

「見本」を置いている様な人は、それを分け与える事を苦にしない本物です。

引用元:https://gkojay.tumblr.com/post/691186388575617024